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‘ぼくなつ’ カテゴリーのアーカイブ

てすと

2020 年 4 月 28 日 火曜日

何かわからぬ

互換確認テスト

懐かしの品々

2018 年 7 月 2 日 月曜日

 今日も抜けるような青空。エアコンが効いた院内もブラインドのあたりに立てば、ほんのりと暖かい(贅沢な気持ちだ)。仲間たちともう蝉が鳴き出してるだろうなぁ、聴きたいなぁとも話した。

難しい本で半分読み飛ばしたが中学時代によく読んだ

  暇なので、入院中に昔懐かしの職業を話していたのを思い出し、午後、水を飲みながら、仲間と昔懐かしいものについて2時間ばかり盛り上がった。アトランダムで系統だっていないが以下のような話題がでた。(いま思い出してるものだけ羅列)
◎「電話の呼び出し」「銭湯」「ちゃぶ台」「お櫃」「シェパード・ブルドッグ・スピッツ」
◎「番傘」「さいころキャラメル」「石炭ストーブ」「豆炭練炭」「ハクキン懐炉」「蚊取線香」
◎「真鍮弁当箱水筒」「オート三輪」「線香花火」「蚊帳」「玉暖簾」「ソノシート」「竹ひご」
◎修学旅行「絵葉書」「ペナント」「提灯」 「肥後守」「ボンナイフ」「像が踏んでもの筆箱」
◎「ローラー式洗濯機」「蠅取り紙」「女子専用脱脂綿」「一銭定食」「シミーズ」「赤チン」
◎包装「新聞」「竹の皮」 「水飲み鳥」「粉末ジュースの素」「みかん水」「駅の伝言板」
◎「東京ボンバーズ」「スクラップブック」「グリコおまけ」「ろばのパン屋」「鯨竜田揚げ」
◎「洗濯板と盥」「脱脂粉乳」「パックマン」「ろう石」「ホッピング」「マブチモーター」
◎「リーダーズダイジェスト」などなど

昔懐かしの職業

2018 年 5 月 22 日 火曜日

 昨日、高齢者といろいろ話した中身の続き。
若いころ居た(あった)けれど今は無くなったことや職業などについて酒も飲まずに昼間っから語り合った。(順不同の走り書きメモ)
◎エレベーターガール 大丸で素敵な帽子とウェアに心ときめいた
◎エスカレーターガールもいた(登りしかない時代、手すりベルトに布を当てていた)
◎和文タイピスト、電話交換手、自転車で出前持ち、小学校前の怪しげなおもちゃ奇術売り
◎ポン菓子屋、風鈴売り、竿竹屋、行商人、赤帽、鋳掛屋、傘修理、貸本屋、飴細工屋
◎ワープロ・表計算 ジャストシステム一太郎・ロータス123
◎街頭テレビ・傷痍軍人・虚無僧、トロリーバス、靴磨き、チンドン屋、サンドウィッチマン
◎氷屋、紙芝居屋、金魚売り、銭湯の三助、豆腐屋、ロバのパン屋、御用聞き、付添婦
◎信号役をしていた巡査・駅改札の切符切り、踏切番、駅弁売り、かつぎ屋、灯台守
◎喫茶店などで貰うマッチ、切手収集、糞尿(おわい・肥料)屋、汲み取り屋、煙突掃除屋
◎ペンフレンド、夜霧のハウスマヌカン、鍛冶屋、バスガール、路線バスの車掌
◎押売り屋(訪問販売)、富山の薬売り、押し屋、鉄釘拾い(子供の仕事)
◎ヤミ米屋 、ちり紙交換、手荷物預かり所

[tip]生き方に迷った時に君子喩於義、小人喩於利、
 『君子は義に喩(さと)り、小人(しょうじん)は利に喩る』
 自分がどれだけ得をするか、いくらもらえるかを気にするのは仕方がないこと。だからと言って、お金ばかり気にするのもつまらない。それよりも、自分のために、人のためにどうすればまっすぐに誠実に生きてゆけるかを考えるほうが良い。そうすると大きな視野をもつことができる。[/tip]

昭和40年代前後

2017 年 4 月 18 日 火曜日

 今日からジムもテニスも検査入院終了の日(5月7日)まで約3週間、休止と決めた。午前中は雨風が強くて外に出る気もなかったので、ノートパソコンでデータベースの整理などをしていた。午後は風が強かったが近所の図書館まで歩いて行き、先週土曜日に予約した奥田英明の「オリンピックの身代金」を借り受けに行った。まだ1割強しか呼んでいないが、出稼ぎ労働者の実態や昭和40年代前後の田舎とオリンピックに湧く東京が描かれており、読み続ける興味を惹いた。東京は昭和50年代以降しか知らないが、東北など田舎の暮らしは兵庫県明石市のそれと大きく変わらないので興味深く読んでいる。「草加次郎」という爆弾魔がいたこともこの本を読んで思いだした。

今は補欠のBIOSで起動している状況

 普段はノートPCを膝の上に載せてテレビなどを見ながらHP更新やブログ操作をしているのだが、複雑な画像操作や高性能な処理能力を要求される際には、自作デスクトップを使って行っている。ところが、先日写真のようなエラーが出て一次BIOSが壊れてしまったようだ。幸いDUALBIOSなので、一方が壊れてももう一方が代替業務を行い、Windowsを立ち上げて呉れるのだが、一つ困ることがある。2次BIOSが立ち上がるまで10秒近く時間がかかるので、電源ボタンを押してもしばらく待たないといけないし、待っても点くかどうかわからないのでちょっとイライラする。このマシンは2009年5月に部品を購入し、組み立てて、2012年暮れにCPU・GPUなども含め高速化してきた。まだ8年しか経ってないので、もう少し我慢しながら、ハードのご機嫌を伺いながら、使ってゆきたい。今度のリプレースは基盤・OSすべてリフレッシュし、空冷式から水冷式の冷却システムに変更したい。ノートPCは熱に強いが、デスクトップは意外に熱にもろい。

島影完成

2016 年 5 月 7 日 土曜日

小冊子だが、50年ぶりの復刊となる

 同人誌『島影』が我が家にも送られてきた。中学校以来の旧友4人で作った小冊子の第4号になる。第3号は大学時代に作っているのでほほ50年ぶりになるだろうか。懐かしかった。
 午後は、テニス用のパラソルをホームセンターに観に行った。直径2m、高さ2m程度がベストだが、価格は2000円前後。それにパラソルを立てかけるポールスタンドが1000円ほどで、予算は合計3000円とみている。ただ、風には弱いので、少し強めの風が吹くと危険なので使えない。ポールスタンドには水を入れたり、砂を入れたりして安定性を高める工夫をしているが、強風には抗えない。それにしても最近は風が強い日が強く、テニスも苦労するが、先日植えた夏野菜の苗も何度も倒れ掛けて、復帰するの繰り返し。

夏の涼

2015 年 8 月 6 日 木曜日

 都心では今日で連続6日間の猛暑日になり新記録だそうだ。熱帯夜も12日も続いているらしい。
 昨日の8月号に引き続き、9月号用に「夏の涼」と題した僕たちの昭和物語素案をつくってみた。これで2年半かけた昭和コラムも丁度25回目を迎えるので、一旦休止としたい。
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 近頃は野外よりも屋内で熱中症になる人が多いと言う。僕たちの若い頃はそんな言葉もなくて、30℃にもなると「日射病になるから家に居なさい」とよく昼寝をさせられた。あの頃祖父母などが「今年は一番暑い」と言ってたのを今ではその通りだと共感する。
 よしずを張った縁側で昼寝の際は蚊帳と蚊取線香は欠かせない。家の周りに水たまりが多いのかすぐに蚊が手足顔にまとわりついてくる。蚊帳の中に蚊取り線香を5分も焚けばぽとぽとと面白いほど落ちてくるので、その後は中で煙臭さもなく1時間ほどぐっすりと眠れた。蚊取り線香の生産は岡山県がメジャーで我が家では、鶏の金鳥と西郷隆盛の南洲香を愛用していた。蝿の防除には「ハエ取り紙」が庭に面した部屋に数本ぶらさがっていた。粘着質の物質をリボン状の紙につけて、吊るしておくとこれも面白いようにハエがくっつく。いわゆるゴキブリホイホイの蝿版である。
 エアコンは無いので、扇風機、うちわで暑さをしのぎ、風鈴や麦茶で涼を感じた。お風呂上がりに汗取りの天花粉(シッカロール)をあごや首周りにつけて浴衣を羽織って外に出る。おもてに帆布製デッキチェアーや床机を出して、近所の人たちと将棋を指したり、夕涼みをしたり、線香花火を楽しんだ。
 その他、夏の涼で思い出すものとして「うちわ」「金魚鉢」「盥と行水」「アイスキャンデーやかき氷」「粉末ジュースやラムネと栓抜き」などなど尽きないが別の機会に続きを書いてみたい。

白黒テレビ

2015 年 8 月 5 日 水曜日

白黒テレビをメインに書いた

 本日、ふれあい毎日8月号が発行された。dachs飼主の「僕たちの昭和ものがたり」第24回目が掲載されたので、メモしておく。
 我が家に待望のカラーテレビ様が入ってきたのは40年代も後半に入ってからだった。木目調で垂れ幕付きの観音開きの大型贅沢家電品で各メーカー「嵯峨」「名門」「王朝」「薔薇」などのネーミングがついて応接間に置かれていた。カラー番組はラテ欄でも、放映中のテレビ画面の右隅にも小さくカラーと表示されていた。テレビから見ている座卓まで長い接続コードが付いてはいたが、手元リモコンでチャンネルが変えられるのはとっても便利だった。字数の関係でカラーテレビの思い出は書ききれなかった。
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 テレビは昭和30年には放送を開始していたが、大半の家庭ではまだまだ高嶺の花で、電気屋の店先や銭湯、街頭テレビで大相撲やプロレス、ドタバタ新喜劇などを大勢の人たちが立ち見でたのしんでいた。
 自宅電話もなく、呼び出し電話を使わせて貰っていたお向いさんでテレビを見せて貰っていた。カラーテレビも30年代半ばから放送を開始していたが、わが家では40年代後半まで白黒テレビが2代も続いた。当時ほとんどの家庭にカラーのテレビは無かった。
 映画でさえ総天然色ではなくパートカラーが多く、テレビ番組もモノクロ放送が中心だった。角丸のブラウン管で下側に大きなつまみが付いているだけの白黒テレビでも高価な家電品で家族皆が大切に扱った。
 テレビの正しい見方は、ブラウン管の直径7倍の距離から部屋を暗くして見るとされていた。選局もリモコンではなく、ロータリー式のつまみで「ガチャ、ガチャ」と乱暴に扱うとスポッと抜けてしまう。
 機嫌が悪いと画面がコマ送りみたいに上から下へ流れたり画像が歪んだりするので、頻繁に裏側の結線を確認したり前面つまみで微調整した。真空管式なので電源オンになってもすぐに映像は出ないなど細かなことはあったが「面白い番組を見るために」と思うとそんなことはたいしたことでは無い。
 あの頃のテレビは家族全員で見るような西部劇やホームドラマがたくさんあった。今と違って、ドラマも30分枠の単発連続番組が多く、毎週一家団欒で楽しめたような気がする。

ハエとカ取り

2015 年 8 月 4 日 火曜日

7月は愛子婆さんの告別式がトップ記事

 今日で都心の最高気温35℃超が連続5日の都心歴代猛暑一位となった。2010年も暑かったが、今年はもっと熱くなるのではないかと思う。
 少し遅れたが愛犬暦に7月を加えた。なにやかやと愛子婆さん告別系が7月の思い出となる。

リボン型の粘着紙

 子供の頃の夏の風物は蚊帳と蚊取線香、ハエ採り紙を先ず一番に思い出す。蚊帳は知らないが、蚊取線香とハエ採り紙は岡山産である。蚊取線香は大日本女中菊株式会社から出されているが今の金鳥である。少し高かったがポトポトと蚊が面白いほど落ちた。蚊帳を張って寝る前に金鳥蚊取りを5分程焚くと蚊帳の中は一匹も居なくなるのであとは蚊帳の裾を注意しながら上げて自分が入ればあとは朝までグッスリ眠れるというわけである。これより安い蚊取線香で西郷隆盛の絵が入っている「南州香」も我が家では良く使った。これは人畜無害の「南州香」がキャッチコピーで線香独特の強い匂いが少ないので年寄り子供には好評だった。ハエ採り紙はカモイの「リボンハイトリ紙」を使っていた。粘着質の物質をリボン状の紙につけて、天井に吊るしておくとこれも面白いようにハエがくっつく。いわゆるゴキブリホイホイの蝿版である。ハエ採り紙は後日カモイからもっと安いアース製薬に取ってかわられるが、アースも岡山県か兵庫県に大きな工場があった。黄色い紙に大きく赤字で「アース」と書いたハエ採り紙はたいへんインパクトがあった。飲食店では薬が使えないや強い匂いはご法度なので、無味無臭のハエ採り紙は最適。しかし、あまり死んだ蝿がべたべたついている紙を店先に吊るしておくのは美観を損ねるので毎日のように新しいリボンに替えていた筈。カモイもアースも大儲けをしたと思う。

テレビの変遷

2015 年 7 月 28 日 火曜日

ラジオに比べると、テレビの普及には15年程度かかっている。価格が異常に高価であったのと、カラー番組放映が順調に進まなかったせいではないだろうか。
テレビは昭和30年の頃には既に放送を開始していた。しかし大半の家庭では、まだまだ高嶺の花で電気店のショーウィンドー、銭湯や街頭テレビで、大相撲やプロレス、ドタバタ新喜劇などを大勢の人たちが立ち見して愉しんでいた。呼び出し電話を使わせて貰っていたお向いさんでもテレビを見せて貰っていたことがある。カラーテレビは30年代半ばから放送を開始していたが、我が家では40年代後半まで白黒テレビが2代も続いた。映画でさえ総天然色ではなくパートカラーが多く、テレビ番組もモノクロ放送が中心だったので当時ほとんどの家庭にカラーのテレビは無かった。
角丸のブラウン管で下側に大きなつまみが付いているだけの白黒テレビでも高価な家電品で家族皆が大切に扱った。テレビの正しいみかたは、ブラウン管の直径の7倍の距離から部屋を暗くして観るとされていた。選局もリモコンではなく、ロータリー式のつまみで、「ガチャ、ガチャ」と乱暴に扱うとスポッと抜けてしまう。また、機嫌が悪いと画面がコマ送りみたいに上から下へ流れたり画像が歪んだりするするので、頻繁に前面の微調整つまみや裏側の結線状況で調整確認した。真空管式なので電源オンになってもすぐに映像は出ず、初期の蛍光灯のように画像を待っていた。
あの頃のテレビ番組は、家族全員で見るような西部劇やホームドラマがたくさんあって一家団欒を楽しめたような気がする。今と違って、ドラマも単発30分枠の番組が多く、長くても1時間くらいだったのではないだろうか。
我が家に待望のカラーテレビ様が入ってきたのは40年代も後半に入ってからだった。木目調で垂れ幕付きの観音開きの大型贅沢家電品で応接間に置かれていた。カラーについて各メーカーは松下ーパナカラーー嵯峨、ソニーートリニトロンカラーー?、日立ーキドカラーーポンパ、三洋ーサンカラーー薔薇、東芝ーユニカラーー名門、三菱ーネオカラーー高雄、日本電気ー?ー太陽、ゼネラルー?-王朝、コロンビアーホワイトカラーー世界だったと思う。
カラー番組はラテ欄でも、放映中のテレビ画面の右隅にも小さくカラーと表示されていた。テレビから見ている座卓まで長い接続コードが付いてはいたが、手元リモコンでチャンネルが変えられるのはとっても便利だった。

骨上げ 裁縫箱

2015 年 7 月 20 日 月曜日

 今週末25日は関西の義兄の家で愛子婆さんの四七日法要が行われるので前日に飛行機で現地入りする。ところが、遺骨がはいっている箱が重くて大きいので手荷物として乱暴には出来ないのでいろいろ考えて郵パックで送ることにした。遺骨は郵パック以外のサガワや黒猫など宅配業者では配送はして貰えないことを初めて知った。関西方面では咽喉仏や腰骨など僅かな量の遺骨しか骨上げはしませんが、関東では遺骨は原則すべて持って帰らないとならない。已む無く大きな骨壺(9寸)と分骨用として関西小さな骨壺(3寸)を用意して貰ったのだが、こちらに置いておくわけにはいかないので関西に持ってゆく。関西では、ちなみにお墓には小さな骨壺だけを納めることになる。大きなほうはお寺と相談することにする。話は関連するが今回の斎場お骨上げの際、係員がすべての遺骨を壺に納めるために、槌で頭部や腰骨を叩いたり折ったりシャベルで骨粉1gたりとも余さず救う姿に、関西人のDachs飼主として、とても衝撃を受けた。
 ツレアイが愛子母さんの荷物を整理している。その中に愛子さん専用の裁縫箱が見えた。dachs飼主が子供の頃、裁縫箱にはマッチのような待ち針、掴む時にこわごわの針山や三角形の蝋石のような青いチョコ(と言ったかな?)などが入っていた。木綿のカタン糸と巻き込み用の(糸)コマはミシン全盛の今でも、まだ売ってるのだろうか。カタン糸の車は図画工作の時間にタンク(戦車)やロボットの部品として使っていた記憶がある。
 裁縫箱には毛糸も入っている。毛糸編みも冬は母がよく精を出して家族のセーターや手袋、マフラー(当時は首巻きと言ってた)を造ってくれた。毛糸のマフラーは今の化繊製より暖かかった気がする。メーカーではスキー毛糸やクローバー毛糸というのがあったように思う。その毛糸を上手にほぐして、編み目の付いた毛糸を、熱い湯の中をくぐらせて、再度編みなおしの出来る直の毛糸にしてゆきます。まっすぐになった毛糸をこぶしに巻いて球体に造っていくのは、(途中で転がしてもう一度やり直したり)たいへん面白かった。
 小学校高学年の時は近所の姉ちゃんたちにリリアンという一本編みを教えて貰い、長い間かかって首巻を完成させたこともある。この糸は伸縮性のあるソフトでカラフルな糸だった(筈)。